佐久間象山【似顔絵】

佐久間象山の似顔絵です。

自らを「国家の財産」と自認。
自信過剰で傲慢なところもあったとされますが、少なくとも自信に見合うだけの実力を備えていることは確かな人物です。

彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまった。という逸話があります。

門下に、吉田松陰小林虎三郎勝海舟河井継之助橋本左内、岡見清熙、加藤弘之坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数。

日本の歴史の重要なピース、「国家の財産」。まさしく…。

佐久間象山(さくましょうざん)

文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。

日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。

天保4年(1833年)に江戸に出て、当時の儒学の第一人者・佐藤一斎朱子学を学ぶ。

天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられる。
洋学研究の担当者として、江川英龍の下で、兵学を学ぶ。

嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信、ガラスの製造や地震予知器の開発。

嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地へ。

嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗する。
象山も事件に連座して伝馬町に入獄する。

更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜公武合体論と開国論を説く。

当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。

7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。

ウィキペディア佐久間象山

以前描いた似顔絵を修正して、JPEGファイルのイラストに、上から貼り直した。
ピクシアファイルでは残ってなかった。

佐久間象山 似顔絵480x